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もうじき彼方へと沈んでいこうとしている太陽が、空一面を茜色に染めている。
市場街は夕食の材料を買い求める人たちで溢れて、賑やかなざわめきが満ちていた。けれど、そこから少し離れたこの中央公園は、そのざわめきがとても程よく空気に溶け込んで、恋人たちが愛を語り合うのにとても良い雰囲気を作ってくれる──ここは、私のとっておきの場所。
そっとベンチに腰掛けて、刻一刻とその様子を変えて行く美しい空を眺めている、こげ茶色の髪の少女。いえ、もう18歳、立派なレディーの一員。それが私。
「まだかしら……」
私はポツリと呟いた。もう、1時間ここで待っている。確かに少しは遅れるかもしれないとは言っていたけど。
「何かあったのかしら」
言ってから不安に駆られる。彼は騎士、時には命がけの仕事もあるはず。どうしよう、もし彼の身に何かあったとしたら……
「悪い、遅れちゃったね、だいぶ」
ちょうどその時、そんな不安をすべて取り除いてくれる声が聞こえた。
そう、この声。私が待っていた大切な人の声。この声さえ聞ければ、今までの不安で堪らなかった時間の事なんて全て忘れてしまえる。
振り返ると、そこに彼はいた。お城の騎士だけが着用を許される制服を、さりげなく着こなしている美しい立ち姿。
普通の人の中ではあまり見かけない、透けるような感じの栗色の髪の毛が、夕日を照り返して黄金色に輝いている。そして、その下の少し申し訳なさそうな笑顔がまた何とも言えずに良い。その笑顔を見てしまえば、たとえ怒ってやろうと思っていたって、すぐに許してしまえる。
「ううん。私、こんなのちっとも──」
「おそい〜。もう先に帰ろうかと思ってたところなんだから」
ちっとも構わないのよ、そう続けようとした私の声を誰かが遮った。とても可愛らしい女の人の声……誰?
「ごめん、ちょっと隊長に用事を頼まれちゃってさ」
彼はそう言いながら、私の隣のベンチに向かって歩いていった。
「隊長だって。自分のお父さんじゃないの」
「いいだろ別に、そう呼べって言われてるんだから……ほら行こう」
隣のベンチの二人は、少しばかりじゃれあった後、手を取り合って歩き出した。
「ち……ちょっと待ってよ、トール!」
私は思わず立ち上がって叫んでいた。その声に、彼──トールが振り返る。
「あれ、アニー。どうしたのこんな所で?」
トールは、私がいたことに初めて気がついたように、驚いた顔をしてそう言った。
「何やってるのって、私との待ち合わ──」
「ねえ、あなた。だぁれ、その子?」
またしても私の声を遮るように、トールの隣にいる女が言った。トールの腕に自分の腕を絡めたりなんかしている、一体何様のつもりよ!
しかも、しかも何なの! その『あなた』って何っ!?
「アニーだよ、会ったことがあるだろ。小学校の頃」
「ああ、あの時のアニーさん?」
女がクスリと笑った。沈みかけの夕日のせいで逆光になってしまって、その憎い顔を見ることが出来ないけれど、腰までありそうな長い髪は、普通の人では決してありえないような綺麗な亜麻色だ。
そして、女がその長い髪をかきあげた時に何かがキラリと光った。それは、もしかして左手の薬指?
「ね……ちょと、その指のキラリって」
「え、これ? これは指輪だけど」
そう言ってトールが見せてくれたのは、トール自身の左手。同じように薬指がキラリと光った。
ガーン、とすさまじい衝撃が走る。それって、もしかして結婚指輪ってやつ!?
でも、ちょっと待ってよ。結婚が認められるのは男も女も18歳から、トールはまだ17歳でしょっ?
「あれ、アニーは知らないの? 騎士になればその時点で一人前の大人に認められるんだ。だから結婚は、そのときにしたって構わないんだよ」
逆光で見えないはずなのに、トールの顔はよく見えた。にこやかな、無邪気な笑顔──それが私の心を容赦なく打ちのめす。
「あなた、早く行きましょうよ。もう日が沈んじゃうわ」
「あ、本当だ。じゃあアニー、また」
二人はそのまま私に背を向けて、幸せそうに寄り添いながら去っていった。
「そんなぁ……」
私がトールに捧げたこの12年間の生活はどうなるのよぉ?
グワン、グワンと頭の中が激しく揺れている。あら、なんだか息まで苦しくなってきて……ああ、私ってばここで死んじゃうのかしら。
「……そんなの、いやよ」
息苦しさを必死の思いで振りほどく。
「……ニー……」
「いや──」
私は、もう届かないトールの背中に向かって手を伸ばした。
「……き…な、さ……」
「いやなの」
涙がポロポロと溢れてくる。それを必死になって服の袖でぬぐった。
「いい加減に起きなさい、アニー!」
「いやぁぁぁぁっ!」
「嫌じゃないでしょ、遅刻するわよ!!」
「……あ?」
目を開けると、そこには見慣れた顔があった。私を起こす当番になっているお姉ちゃんの顔。いつものごとく、怖い顔をして私のことを覗き込んでいる。
「あれ?」
「何が『あれ?』なのよ」
「はぁ〜……。夢かぁ」
ぐったりと体中の力が抜けた。パジャマは汗でグッショリとしてる。
「ああ、良かったあ」
それにしてもとんでもない悪夢だったわ。
「何の夢を見たのかは知らないけど、遅刻しそうなのは夢じゃないわよ。今日は日直なんでしょ?」
はっ! そう言えばそうだった。
「そうよ! 何で起こしてくれないのぉ!?」
「起きないのは、あんたでしょ!!」
ああ、違うのよ。こんな下らない言い合いをしてる時間なんかないんだわ!
私は気合を入れて起き上がろうとした、のに……あれ?
「……起きられない」
救いを求めるようにお姉ちゃんの顔を見上げる。するとお姉ちゃんは冷たい視線で一言。
「足」
ふと目をやると、膝から下だけをベッドの上に乗せて、私の体は床にあった。
「さっさと教えてよ!」
床から立ち上がって、思わずお姉ちゃんに叫ぶ。
「それくらい、自分で気付きなさい!!」
ああ、だから違うんだってば! こんなことをしてちゃいけないのよ、私は。
「ああん、もう〜──!!」
そして、慌てて服を着替えようとしたとき、私はある重大なことに気が付いてしまった。
「うそ、私ってば汗まみれじゃない、身体洗ってくる!!」
「そんなのいいじゃない、帰ってきてからだって。どうせ学校でも汗かくんでしょ?」
そのセリフはちょっとばかり聞き捨てならないわよお姉ちゃん。私のことを一体なんだと思ってるの? その辺の子供と一緒にしないでよ。
「お姉ちゃん、その言い方はないでしょ? 私だってもう立派なレディーよ、人前に出るときに汗臭いなんてみっともないじゃないの。そんな基本的な身だしなみもわからないなんて、そんなことだから22歳にもなった女がいまだに恋人の一人も──」
ピキリ、とお姉ちゃんの身体が固まるのが分かった。……まずいわ、人々を薙ぎ倒す恐怖のオーラがユラユラと。
「アンナ、ダイナちゃんが来てるわよ」
その時ひょっこりとママが顔を出した。
ナイスタイミングよ、ママ! 可愛い娘の危機を察知してくれたのね。私はほっと一息をついた。
「うん、いま行く」
お姉ちゃんはママのほうへ顔を向けて返事をすると、もう一度私を振り返った。とってもにこやかな笑顔で。でも、ときどきほっぺのあたりがピクリと痙攣している。
「で、アニー。なあに? 22歳になった女がいまだに?」
うわっ、全然ダメじゃないのよ! どうしよう、どうにかしてここから逃げ出さなきゃ……寝汗とは別の汗が背中を幾重にも流れてるのが分かる。
「い……ま……そうよ、今はそれどころじゃなかったんだわ!!」
私は叫んで着替えを引っつかむと、バスルームを目指して駆け出した。言い訳なんていらない。こういう場合は、逃げるが勝ちよ!!
「あっ! ちょっとあんた逃げる気!?」
そんなの当たり前でしょ、お姉ちゃんの声は無視! バスルームに飛び込んで、ガチャンと留め金を下ろす。ふぅ〜、これでとりあえずの危機は乗り越えられるわね。
「これで済んだなんて思うんじゃないわよ、アニー。とりあえずはここまでだけどね、明日はいつもみたいに起こしてやらないんだから。ベッドから蹴り落として、たたき付けて、濡れタオルで顔を塞いでやるわよ! 覚悟しときなさい!!」
お姉ちゃんはドアをガンガン叩きながら──ううん、これは蹴ってるわ──そう言った。完全に切れてるわよね、これ。明日からは自力で早起きしなきゃ。
「アンナ、あなたアニーのこと、いつもどうやって起こしてるの?」
不安そうなママの声が聞こえた。
「ベッドから引き摺り下ろして、頭を揺さぶるだけよ。今日はそれでも起きないから、鼻と口をつまんでやったけど」
ああ、それで夢の中でガーンと頭が痛くなったりグラグラ揺れたり急に息苦しくなったり、って……お姉ちゃん、恐るべし。